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2022/03/31

努力できるという才能

お久しぶりです。2月以降プライベートであれこれあったもので,しばらく更新が滞ってしまいました。またよろしくお願いいたします。

実は体育会系寄りでした

さて2~3月のブログテーマは「スポーツと私」とのこと。見るからに文化系といった風貌の私ですので意外におもわれるでしょうが,実は中高生のときは体操部でした。なので私,バク転のできる占い師なんですよね。ほんのり自慢します。バク転より行列のできるほうが自慢になるかも知れませんが……。
(あと,なにせ何十年もやっていないのでいま試したら大怪我をしかねないので小声にしておきます)

それから20代のときはボクシングを,30代のときはカポエィラ(ブラジルの伝統的格闘技)をやっておりました。こう見えて結構運動には適性があるのです。現在は軽い筋トレやストレッチをやる程度ですが,健康のためにもこれらは必要な営みです。コロナ禍でインドアの生活が長引くなか,より積極的に体を動かす機会を設けるようにしないと不健康です。みなさんもご注意ください。

スポーツか体育か——個人と集団・社会とをめぐる温度差

私のツイッターのフォロー関係ではやはりミュージシャンや音楽ファンの人たちが多いのですが,それこそそうした見るからに文化系の人たちが何人も口を揃えて言うのが「スポーツは好きだけれど体育が嫌い」です。どうも学校での体育の授業に全体主義的なイメージをもつ人たちが少なくないようです。教育の手段として体育は非常に有効な手段なのですが(私は教育学専攻です)そこには身体の管理が付随する課題となります。管理の主体はだれか,自己管理でやっていくのか,それとも“教育的”に他者が管理していくのか——というところが問題になりますが,詰まるところ教育とは他者の価値観を内面化させることであり,自己管理するその自己にさえすでに他者が組み込まれているわけです。

健康のために運動が必要だ——これに関してはほとんどの人が異存はないでしょう。それが個人のQoLの問題ではなく他者のため~社会のためという意味合いを帯びると抵抗を覚える人もいるのだとおもいます。コロナに対して集団免疫を獲得するためにワクチンが必要なのだという言説にかなり強く抵抗を示している人たちが存在するのは,おそらくはこうした観点から説明できるでしょう。

サビアンシンボルに見るスポーツの効用

360のサビアンシンボルのなかにはこのようなものがあります。

乙女21度
女の子のバスケットボールチーム
A girl’s basketball team.
キーノート:集団の文化に参加する感覚を叩きこむ手段としての身体的訓練

これはジョーンズ版・ルディア版ともに同じ詩文であるパターンの1つです。キーノートにきわめてストレートに示されているとおり,バスケットボールの練習を通じて個々人に「集団の文化に参加する感覚を叩きこむ」のです。しかし,それがすなわち強制的な教化を示すものだと見るのは早計です。ジョーンズは「それによってより高度なリアリティが日常的に現れるようになるような労働の統合的な分担のシンボル」と述べています。集団の文化に参加し,分業的な役割を担うことで,個々人はより高度なリアリティを日々の生活のなかで見いだせるようになるのです。

ジョーンズはこうも述べています。「自己は真空中では存在し得ず,また他者がきわめて重大な関心をもっていないような目的のために費やされたどんな努力にも満足はない」人は一人で生きているわけではなく,他者からの承認が得られないような営みへの努力には満足はないのです。人と人の間を生きるからこそ“人間”なのです。

このサビアンシンボルのキーワードは「EXPRESSION(表現,表出,表情,言いまわし)」です。チームに属しているからと言って没個性的というわけもなく,むしろそこで求められるのは自分の個性の強い表現なのです。集団のなかで個人をどう主張していくか——乙女21度のテーマはこういう事柄となっています。

なお,その他にも射手6度「クリケットの試合」や山羊16度「体操着姿の男子女子でいっぱいの校庭」など,スポーツや体育を題材として集団および個人の問題を扱っているサビアンシンボルが複数存在します。

全体主義か組織運営か——だれのため/なんのため

とは言えスポーツに全体主義的な面があるのは否めないところです。昨年の東京五輪はコロナ禍の最中にあってさまざまな社会問題が噴出しているなかでの強行でした。多くの矛盾を覆い隠し粉飾し,日本が国際社会で見栄を張るために無理矢理敢行したものだと私は見ています。そうして「日本スゴい」をアピールしようとすればするほど恥の上塗りにしかならなかったのがまた痛々しいところでした。アスリートにとっても,だれのために/なんのために競技を行うのかが深刻に問われたようにおもいます。社会のためではないでしょうし,少なくとも国のためではないでしょう。

全体主義的な面とはまた異なり,組織運営の手段としてスポーツを利活用することは古くから採用されてきました。多くの企業が実業団としてスポーツを摂り込んでいるのは,競技の指導や監督と会社組織の運営に多くの接点が有効的に見いだされるためです。現在放送中のNHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』ではヒロインの嫁ぎ先の家業が大手繊維メーカーという設定で,その二代目を継いだのはヒロインの亡夫の実弟,筋金入りの野球少年でした。先代は当初兄のほうを跡継ぎとして見なして帝王学を授けていましたが,太平洋戦争に徴兵され戦死。あまり期待されないまま仕方なしに跡継ぎとなった体の弟でしたが,野球で培ったチームプレーの精神やコミュニケーション能力がビジネスに大いに活かされ,会社をさらに大きく発展させました。フィクションではありますがスポーツの効用をよく描けているとおもいます。

スポーツの才能,音楽の才能

私が体操部に入ろうとおもったのは,中1のときに部活動の説明会で先輩の演技を見て「かっけ~~!」となったからです。実に単純で素朴な動機ですが,自分のネイチャーに適性がなかったわけではないとおもいます。占星術上,リズム感やダンスのセンスを示す天体は海王星とされますが,私の場合は海王星と火星が180度をなしています。これはサイキックな能力を表すアスペクトとも言われますが,音楽や占星術,そして体操などにも活かせなくもないかと見ています。

母校の体操部はちょっと変わったところで,なぜか部室にドラムセットやエレキギターおよびアンプなどが設置されており,先輩諸氏にも楽器を嗜む人が多かったです。だいたい,軽音楽部の部室にドラムがないのに,体操部にはある。なので軽音の連中がうちの部室に出入りしたりしていました。やはり音楽と体操とは親和性が高いようです。私自身も体操の練習を通じて相当にリズム感が鍛えられ,楽器自体の練習と同等かそれ以上に現在の演奏活動に活きていると感じています。

当時先輩からいただいたアドバイスがいまでも忘れられません。「いまは『いくら練習してもできねぇなぁ』っておもってるだろうけど,これがある日突然すこーんと抜けたようにできるようになる。そうなると,いろいろなものが全部つながって一気にできるようになる。だからとにかく頑張れ」これが本当に本当でした。できなかったあれもこれもが全部つながり,まるでパズルのピースが一挙にハマって完成されたような感じを受けました。

そして,楽器演奏についてもまったく同様でした。「弾けねぇなぁ」「できねぇなぁ」とおもっていたフレーズの数々が,一気につながってパッセージをかたちづくっていくのです。奇跡が起きたかのようでした。しかしそんなはずはありません。現象的にはある日突然うまく弾けるようになったかに見えますが,努力と研鑽を怠らず不断の鍛錬を続けているからこそ,突然の変化,脱皮が生じるのです。逆に言えば,変化が,脱皮が欲しいなら,ただひたすら練習するしかないのです。牡牛的な体感としてはこれが真理です。また,こうした地道な練習を厭わずにできることが一つの,そして必須の才能ではないかとおもっております。

図らずも本当にガチに「スポーツと私」について書いてしまいました。結論は,スポーツを通じての教育には組織運営の面でも自己強化・教化の面でも有効な部分があるということ,そしてこれらを占星術上で適性や資質として見定めることも可能だということです。一度お話しに来てみませんか。お待ちしております。

 

『スポーツと私』~2022年2-3月のブログテーマ~

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